2010年4月14日
リマの歴史
1535年1月18日に、インカ帝国を征服したスペイン人のフランシスコ・ピサロらコンキスタドーレス一行は、リマック川右岸のリマの首長、タウリチェスコの館で、スペイン式の儀式に基づいて「副王たちの都」("La Ciudad de los Reyes")を創設した。1542年にリマはペルー副王領の首都に指定され、ヌエバ・エスパーニャ副王領のメヒコ市と共に、それまでのイスパニョーラ島のサント・ドミンゴに代わってアメリカ大陸におけるスペイン植民地支配の中心地となった。
16世紀から17世紀を通して、リマはスペインによる南米植民地支配の拠点として、アルト・ペルーのポトシや銀山の銀がヨーロッパに輸出されるための中継地点となったことで栄えた。1551年には南米最古の大学であるサン・マルコス大学が創設された。1614年には人口は25,000人を数えており、リマの発達と共に都市文化が栄え、サン・フランシスコ教会やトーレ・タグレ邸などの華やかな建築物が建造された。1687年と1746年の大地震は多くの建築物を破壊したが、リマの栄華は失われなかった。1761年に着任した副王アマトは大規模な都市計画や演劇の振興を行い、知識人の文化が栄えた。一方リマにはアフリカから連行された奴隷や、都市に流入した先住民系の住民、メスティーソなどの人々も存在し、白人上流階級の文化とは別に彼等独自のクレオール文化が育まれた。
1808年のナポレオン・ボナパルトのスペイン侵攻により半島戦争が勃発すると、イスパノアメリカのクリオージョは、偽王ホセ1世への忠誠を拒否し、ラテンアメリカ大陸部の独立戦争が始まった。リマのクリオージョは特権を失うことを恐れて独立に消極的だったが、1821年にアルゼンチンからホセ・デ・サン=マルティンがリマを解放し、独立宣言を発した。その後リマは独立勢力の混乱の中で再びスペイン王党派軍に奪回されたが、最終的にシモン・ボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレがアヤクーチョの戦いでホセ・デ・ラ・セルナ率いる王党派軍を壊滅に追いやったことにより、ペルーの独立は確定した。
独立後のペルーの政治は安定せず、各地でカウディージョが跋扈していたが、ラモン・カスティーリャが一定の安定を実現すると、ペルーはグアノの輸出によって近代化を実現しはじめ、ガス灯や鉄道が建設され、1872年に都市計画のためにリマの城壁は破壊された。また、19世紀の半ばからヨーロッパや清(中国)からの移民がペルーに導入され、19世紀末には日本人移民も導入された。これらの移民はコスタの大農園で労働者として働いた後に、多くはリマに流入して小商店主などになった。
1879年に勃発した太平洋戦争でペルーが劣勢に陥ると、1881年にチリ軍はリマを占領した。チリの支配は二年間続き、アンコン条約が結ばれるまでチリ軍は撤退しなかった。
1940年には大地震が起き、以降スラムの建設が盛んになった。また、同年満州事変以来高まる反日感情を背景に、排日暴動が勃発した。
1968年に軍事革命でベラスコ将軍が政権を握り、ペルー革命が始まると、リマ周辺のスラムは「若い町」(プエブロ・ホーベン)と呼ばれ、スラムでの自治運動が推進された。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
リマはペルー共和国の首都にあたります。
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